ある日、娘が言いました。
---◯◯(娘)は、学校に行くのがストレスだな。
---◯◯(娘の学校名)おかしいよ!
それは、夏休みに水泳の補修があることについて言っています。タイムが目標に達していない生徒は、補習に招待されるのです。
---やりたくないことをやらせる意味がわからない!
近頃の娘の言動を聞いていると、思春期特有のというか、矛盾とか、理不尽とか、そういうふうに感じられることに対する反発がにじみ出ています。
---数学なんて将来使わないのに、なんでここまでやらなきゃいけないの?
絵に描いたような、思春期の抵抗。子どもだけど、子どもじゃない、大人でもない中学生。
そこで、私はとりあえず自分の頃のことを振り返ってみました。
中3のときは学区の公立中で、高校受験が目前に迫っており、同級生はみんな受験するので、有無を言わさず受験モード。
それは、プレッシャーはあるにしろ、それほど居心地が悪いものじゃなかったんですよね。目標に向かって勉強するのは心地良かった。それは、勉強のレベルが自分に合っていたからかもしれない。やればできるのが楽しかった。
当時は、受験戦争という言葉が流行っており、受験以外を排除して勉強に集中することへの疑問があったり、俺たちこれでいいのか?みたいなモヤモヤした心持ちの中で、受験に向かっていた。
同級生の自死。なんで死んだのかわからない。優等生で、志望校も決まっていて、やさしい子だった。死ぬ理由がわからない。でも、死んでしまった。中学最後の夏休み。
高校受験があったから、悩み事があってもそっちに時間をかける余裕はなかったのが、逆に良かったのかな。
今だったら思う。勉強は生きるためのトレーニング。中学や高校の勉強は生きるための基礎。なんでやっているのか今わからなくても、いつか何かをやりたいと思ったときに、それを選び取れる自分になるための。
娘が思春期のモヤモヤを乗り越えて、落ち着いてくるのは、もう少し先になるのかな。
精神的な幼さが見えて、見ていると危なっかしくて、ハラハラしてしまうのですが、きっと娘にとって必要な一時期なのだと受け止めたい。
といいつつ、今の子の親は見守りだけじゃダメなんじゃない?それじゃ無責任なんじゃない?というささやきが脳裏をよぎる。
時代が違う。昔の親はここまで中学生の子どもに関わっていなかった。けれど、今は同じようには考えられない。子どもも親も、学校も先生も、関わり方が変わっている。
待つということを、子どもも親も求められているのか。
子どもの前に立ちはだかるハードルを親がいちいち取り除いてやっていたら、子どもは自力で生きていく力を養うことができない。
ただ、子どもが急ぎ過ぎないように、適度にストッパーをかける方法を模索しています。
親の言葉が響かない年頃ではあるけれど、諦めずに、手を替え品を替え、語りかけていくしかないと思って。