君と歩いた道

2017年に公立中高一貫校に入学した娘は、2023年に大学生になりました。

生きる力

これは、教育が語られる上で最近よく耳にするキーワードですが、今日は自分にとっての生きる力を考えます。

こももは今13歳。ここまで来るのにいろいろなことがあった。うれしかったこと、楽しかったこと、キツかったこと、などさまざま。こももは生まれた時からかわいかった。一瞬一瞬が綱渡りの連続で、綱渡りしながらこもものために私ができる最良のことは何かといつも考えて動いていた。

ここ数年の職場環境の悪化による負担が大きくなり、更年期とか思春期のこももの言動などの変化も重なってか、最近どうにも限界を感じて、気分ががくん、がくん、と下がっていくことが続いた。そして、今まで無我夢中で乗り越えてきたことまで、あらゆることが間違っていたのではないかという気がしてきて、それこそ絶望的な気持ちになってしまったりして。

そんな時、たまたま前回の記事を書いて、忘れていた希望を少し思い出した。私は、こももにやりたいことをやらせてあげたかったのだ。だから、今まで頑張ってこられたのだった。やりたいことをやらせてあげるためには、まだまだ私は頑張って働いていかないといけない。私が倒れたら、私が死んだら、こももは諦めなきゃいけないことも出てくるかもしれない。こももに諦めさせないために、私はまだ頑張れる。

母という存在の重さ。母である前に一人の人間であるということ。子どものことをいちばんに考えてしまうのが母の性なのかもしれないけれど、自分のことをもう少し大切に考えて生きなければ。またそれが、引いては子どものためなのだと、また子どものことを考えてしまう習慣で堂々巡りしてしまうのだけれど、あくまでも自分のために生きるということをしっかり考えていくことの必要性を感じた。

子どもを守ること、子どもが主役であること、こももが生まれてからそこに照準を合わせて生きてきた。自分のことを後回しにするとかわざわざ意識しているわけじゃない。自分のことは、母になった時点でもういいかな、生まれてから今まで充分自分のために生きてきた、だから、もう自分のことはいい。そんなふうに思った。

しかし、それじゃダメなのかもしれない。まだまだちゃんと自分のために生きないとダメなのかもしれない。じゃあ、自分のために生きるってどういうことだろう。今私が自分のためにできることって何だろう。考えてもそうそう思い浮かばない。

元気でいること、健康でいること、おいしいものを味わうこと、行きたいところに行くこと、などだろうか。自分のために生きる方法みたいなものを、すっかり忘れてしまった。というか、私にとっての自分のために生きるって辛いことが多かったから、できればそこから離れたかったのかもしれない。そのためにこももの存在を利用したのではないか。そんなこと考えただけでも最悪なんだが、そういう自分の一面を私は知っていた。だから罪滅ぼしのように、子どものため、家族のため、誰かのために役に立ちたいというところでしか生きる意味を見出せない。自分のためだったらとっくに投げ出している。そこが問題なのかな。

ずっと続いていた緊張の糸がプツンと切れた。疲れ切った心と体を充分に休ませれば、きっと回復する。元気になれる。前回の記事を書いていたら、そんな気がした。

きっと大丈夫。今までだって何とかなってきたのだから、きっとこれからも何とかなる。