君と歩いた道

2017年に公立中高一貫校に入学した娘は、2023年に大学生になりました。

読書の楽しみを知る

こももは、友達から何度か「語彙がヤバイ(慣用句の使い方など)」と言われたことがある。友達同士の日常会話での一コマだが、あながち冗談ではすまない鋭い指摘だとこもも共々感じている。また、こももは文章を書くのは好きなのだが、本を読むのがそれほど好きじゃない。小学生新聞や中高生新聞などの読み物は喜んで読むし、好きな本は何度も読むが、読んだことがない本を読んでみようということが圧倒的に少ない。

小学生の時は、図書館によく通っていた。家の本棚に並んでいるエンデやケストナーなどは、気ままに読んでいた。ケストナーの少年文学全集では、池田香代子訳より高橋健二訳の方がケストナーらしさを感じる(先に読んだせいもあるかも)というくらいに愛読していた。私が比較的面白そうだと見繕って買ってきた現代作家の児童書なども、特に躊躇することなく読んでいた。

しかし、小学校高学年、中学生になるにしたがって、夢中になって没頭して読んでしまうとか、本の世界にのめり込んでしまうという経験まで至らない。忙しくて読むのが億劫になってしまうというのもあるのか。

中学生になってから図書館で借りてくるのは、人物像をタイプ分けして分析したり鑑定したりする内容の本が増えた。他人が分析する人物像を自分と照らし合わせて探るというのは、自意識に目覚めるこの年頃特有の部分もあるのかもしれない。

それでも、自分の内面に興味を持つというのは、本を読むきっかけにはなる。今のこももに適した、夢中になって読んで読んで読みまくりたくなるような、未知の書物との出会いがどこかに転がっていないものか。こももも歩けば棒に当たるみたいに。

私が小学校高学年の頃は、海外児童文学の少女探偵シリーズとか、星新一とか筒井康隆とか、推理小説やSFをよく読んでいたような気がする。活字なら何でも読むというタイプではないが、好きな作家に新たに出会った時の「これだ!」という感動は忘れられない。

星新一ショートショートが家にあったと思ったが、探しても見つからなかった。とりあえず吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が出てきたので、こももに手渡してみる。昔の文庫って字がとんでもなく小さかったんだなと改めて気づく。

(おまけ)

その後、思いついたら何だか星新一が読みたくなって(読ませたくなって)、駅前の書店で「ボッコちゃん」(新潮文庫)を購入。こももは早速読み始める。薄い文庫に短編50編が収められている。1編1編読むごとに、可笑しそうに感想を聞かせてくれる。星新一の文体が、スッキリしていて整然としていて、ふつうのことを言うようにへんなことを言っている、へんな話なのに妙に説得力があって、残念な後味が笑えないのに笑っちゃう、など。

テスト勉強の気分転換には持ってこいのようで良かった。こもも、これを機に星新一にハマってみないか。

そして、自分の枠を決めないで、さまざまな作家や書物に対して、読んだことはないけれど読んでみようと思えるような気持ちになれるように・・・と母はこっそり念じている。