習い事など何かを始める時に、子どもが自分からやりたいと言って始めた場合と、子どもの意思確認はなく親が決めて始めた場合とでは、ぼやきの質も変わってくるかもしれない。また、親が決めて始めたことでも、意外と始めてみたら楽しくなってきたという場合もある。一概には言えない。
子どもが行きたくないと言ったり、行きたがらなくなったりする時に、基本的には子どもの意思があって続けることが前提なので、じゃあ、やめてみる?と考える。しかし、一度始めたことを途中で投げ出してしまっていいのか。本当にやめたいのか。そこの見極めが難しい。行きたくないと言うだけの理由がちゃんとあるのか。発散したいだけの一時的なぼやきではないのか。
こももの場合は、ほぼ後者。
こももは、行く直前になると行きたくないと言い始める。行きたくない理由を聴くと、理由にもならない理由。面倒くさいとか。自分でやりたいと言って始めた習い事であってもである。中学生になってからは毎日忙しいので、学校に行く直前とか、部活に行く直前にも言い始めることがチラホラ。ということは、少なくとも本気で行きたくないと言っているわけではなさそうだ。やめたいわけじゃない。
尻を叩いて「行ってらっしゃい!」と送り出せば、帰ってくる時には、すっきりした顔をしている。「行かなければ良かった?」と聴くと、えへへと笑って、その日あったことの話が尽きない。行って良かったのね。
(こもも)行きたくない
(私)本当に行きたくないのか?
(こもも)だって、ごにょごにょごにょ
(私)それなら、やめちゃいなさい。そんな中途半端な気持ちで続けるのは、先生に対して失礼だ
(こもも)なんでそんなこと言うの?
(私)はい、行ってらっしゃい
(こもも)帰ってきたらすっきりして饒舌
このやりとりは、1度や2度じゃない。こももは懲りもせず、毎回行きたくないと言う。無限ループのようで気が遠くなる。
これは、口癖になっているのかもしれない。本当に行きたくないというより、行きたくないと言いたいのだ。泣き言を言いたいのだ。弱音を吐きたいのだ。行きたくないと言った時に、じゃあ行かなくていいよという、私の許可を待っている。私が行かなくていいよと言えば、行かないことを正当化できる。しかし逆に、じゃあ休む?と私が問うと、休む決断は自分ではできない。したくない。
こうなるともう、駆け引きである。
確かに自分のことを考えても、行くまでは気が重くて行きたくないことでも、えいやっと重い腰を上げて行ってみると、どうってことなかったみたいなことは多い。本当に行きたくなかったら、迷う前に決断している。
しかし、こももはまだ子ども。前途有望な中学生なので、大人の言い訳と同じようには考えられない部分もある。発破をかけてほしい、背中を押してほしい、喝を入れてほしい、そういう甘えには、根気よく応えてあげるつもりでいていいのかな。
私は、いつも同じことを言ってよく飽きないなと途方に暮れてしまうのだけれど、いいんだよ、ただ聴いてあげれば。何度も何度も、何度でも聴いてあげるよ。
かつて拒食症で子どもの心療内科に通っていた時に、小児科専門医から言われたこと。こももが「大丈夫かな?」と何度も確認してきたら、私は何度でも「大丈夫だよ!」と応えてあげればいい。変わったことを言わなくていい。ただ「大丈夫!」と。「だって、今までも大丈夫だったでしょう?だから、今度も大丈夫だよ!」と。
少なくとも、やめることはいつでもできる。自分が決めてしまえば、驚くほど簡単なことだから。それはまだ、知らなくてもいいことかもしれないけどね。