役に立つか、あるいは役に立たないか、という基準で物事を取捨選択することに、若干の抵抗があります。
それはなぜなのか。
感覚的には、殺伐とした気持ちになるという面はあります。
また、役に立つということを便利であると言い換えた場合、忙しい毎日に追われる日常、時間やお金に追われる生活を送る人間にとって、そういうものに出会うと非常に魅力的で、つい飛びついてしまいます。
体や心が疲弊していると、自分をラクにしてくれるものの存在に出会っただけで救われたような気がして、もう一歩頑張ってみようなんて力が湧いてきますしね。
しかし、それがスタンダードになってしまうのはどうなのかな、とか、ふと思われてきたりすることがあるのですよね。
役に立たないものの中に、あるいは不便なものの中に、知らない間に何かを置き忘れてきてやしないかと。役に立たないからこそ、実は心は自由でいられるんじゃないかな、とか。
むろん、ドロップアウトを勧めるわけではありません。自分で生きていくための生活力、困難に立ち向かうチャレンジ精神を養うことは必要だし、子どもたちにもそういうふうに育ってほしい。
それはそれとして、これから大人になる子どもたちに向けて「世の中の役に立つ人に」なんていうフレーズをよく耳にするのですが、考えてみるとそれは「どう役に立つか」ということなのかなぁ。少なくとも私は、そう受け止めたいですね。
一方で、世の中の役に立たない人になってほしい、なんていう言い方も、あながち悪い意味ではないように思います。
生きていくうえでの教養とは、知性、品位とは、というところで、子どもたちには豊かに育ってほしいですね。