2021年2月13日(土)23時08分
我が家では、緊急地震速報が鳴ってから、まもなく揺れが来ました。徐々に揺れが大きくなり、揺れが止まらないので、寝室にいる娘の名前を呼び、娘の返事を確認しました。
揺れが止まってから、落ちたもの、落ちそうになっているものを確認し、元に戻しました。
落ちたものは、積んである娘の教材、プリント類など。落ちそうになっていたものは、冷蔵庫の上の電子レンジ、食器棚のガラス戸の中の食器、クローゼットの上の衣装ケースです。結構ずれていました。
2011年3月11日(金)14時46分
東日本大震災が来たときは、金曜日で有休を取って、保育園卒園の謝恩会に娘と一緒に出ていました。謝恩会の会場は広い畳のお部屋で、子どもたちと保護者、先生方で、壁にへばりつくようにして揺れが収まるのを待ちました。
会が終わり会場の建物を出るとき、1階フロアにあるテレビモニタに人だかりができていました。見ると、津波の映像が流れていました。それをみんな無言で見つめていました。言葉がなかった。
外に出ると、視界が埃っぽくベージュ色に染まっているように見えました。道路は車がほとんど走っていなかった。自宅に帰ると、冷蔵庫の上の電子レンジが半分落ちかかっていました。
深夜、原発事故の影響で、窓を閉め、エアコンや換気扇を止め、自宅にこもるようテレビでニュースが流れました。とりあえず、翌日図書館に借りた本を返しに行くのは中止に。
中には、原発からできるだけ遠くに離れようと避難する人もいました。保育園でも、移住したご家族もいました。子どもだけ西の実家へ避難させた人も。小学校の対応は、自治体や学校によってまちまちでした。
我が家は、避難も移住もできなかった。ようやくつかんだ仕事を放り出せなかった。
6歳の娘にマスクをさせ、水筒を持たせて、年度末まで保育園に通わせ、私もマスク着用で通勤しました。新年度は、春休みから学童保育に通い始め、小学校の入学式ができるのか不安な中、入学式は予定どおり執り行われました。
あれから10年。少なからず被曝しているだろうことを覚悟して、食べ物や水で少しでも免疫を上げるようにと過ごしてきました。
大きな地震がいつ来てもおかしくない。その意識は常にあるものの、怖いのは自分自身の正常性バイアス。願望が現実であってほしいと思うことで、判断が鈍り、行動が遅れるのです。
迷ったときは、命を優先すること。生きてさえいれば、いくらでもやり直せるのだから。それを何度でも自分自身に、そして娘に言い聞かせていきます。