君と歩いた道

シングルマザーもものブログです。公立の中高一貫校に通う娘がいます。

高2のオーキャン、模試、英検、TEAPなど

 高2のうちに、行けるところから行っておきたい大学のオープンキャンパス。昨年はまったく行けませんでした。今年も制約はありそうですが、諦めずにアンテナを張って行けるようにしたいです。

 模試の志望校に書く大学は、国公立1大学1学部、私学5大学5学部の計6大学まで絞ってきていますが、あと2大学ほど列挙したい。

 国公立の第2志望の大学を探していて、希望条件に近い研究室がある大学にたどり着きました。しかし、現状わかる範囲では専門教員の少なさや、卒業生の就職先など進路の方向性が狭い印象です。

 学校見学は志望校に限定しなくても、行けたら行くというスタンスでいいですが、志望大学を増やすのは至難の業です。

 

 オープンキャンパスやキャンパスツアーの予定を踏まえたら、次は英検と模試。

 TEAP受験は、英検を準1級まで取ってからがいいという声を耳にしました。準1級程度の英語力で受けないと、受けても無駄ということでしょうか。仮に準1級を取ってから受けるとすると、まず準1級を受験するのに、高2で1回、高3で1回としたら、TEAPは高3で1回受けるのが精一杯になるかもしれません。

 一方で、今年度の第1回英検は受けないことを娘は即断しました。それならば、第2回英検まで間が空くので、夏休みに1回TEAPを受けようかという話になりました。

 受験料が年々上がって、今や英検準1級10,700円、TEAP 4技能15,000円までになっていることも、娘にきちんと伝えました。その額面の価値が感覚的に今わからなくても、いつか考えるときが来るでしょう。

 英検は、気持ちだけでも一発合格を狙って頑張ってほしいです。

 模試は、高2でどこまで受けたらいいのか悩みます。とりあえず、河合塾の第1回全統高2模試を自宅で受けてみることにしました。本人がまだ受験に目覚めていないので、いくら受けても受けるだけでは身にならないでしょう。

 

 娘は最近、自分の志望校を口にするくらいまでには変わってきました。しかし、それが行動に結びついているかというと、そうでもないです。

 亀の歩みは永遠に続きそうで、気が遠くなりますが、きっとあっという間に、高校生活も大学受験も思い出になってしまって懐かしむ日が来るのでしょうから、大事に味わいたい所存です。

コロナ禍2年目のゴールデンウィーク

 母のワクチン予約が取れました。実家で同居する家族の協力あってのこと。2台のPCで入れず、スマホの方が入りやすいという情報を得て、すかさずスマホで入って取れたとのことです。

 母は昨年2月から引きこもって、自宅から一歩も外に出ない日々を続けているそうです。私は昨年の正月休みから帰っていません。とにかく早くワクチン接種して、感染が落ち着いたときに帰れそうなタイミングを逃さず帰っておいでと、母も言いたいのでしょう。

 このゴールデンウィークも、万が一はどうしてもいやなので、帰省しなかった我が家です。

 夏には帰れるかな。軽く期待しています。

 

 特に「帰らない」と誰にも言わずに、ゴールデンウィークに突入しました。すると連休前半の朝早く電話が来て、弟ファミリーが母からのお届けものを預かって持ってきてくれました。家には上がらなかったけれど、弟たちは車を降りて、車の横でおしゃべりしました。

 澄みわたる青空の下、会って話すのは本当に楽しかった。久しぶりに心置きなく話しました。

 みんな、元気そうで何よりです。

 

 感染がどれだけ拡大しても、国民の自粛頼みで責任回避ばかりの政府が発する言葉がどれだけ空虚でも、そのために感染拡大防止のための自粛の意味が破綻してもはや機能しないとしても、オリンピックがあろうとなかろうと、私は何が何でも感染しないし感染させない。

 そのくらいの強い気持ちを保とうとして、淡々と過ごしています。

 それでも罹ったら、南無三です。

高2の学校生活は始まったばかり

 娘が5年生になって1か月が過ぎました。この1か月は、新年度の手続き的行事の諸々が凝縮しています。それが一通り過ぎ去り、ほっと一息つくゴールデンウィーク

 振り返ると、年度の変わり目の新しいクラスや新しい担任に対する娘の期待度は、年々下がっていくようです。私は、恒例になっている公立学校教員の異動者一覧に目を通すくらいで、淡々と始業式の日を迎えました。

 

 今年もまた例によって、娘は仲が良い友達と同じクラスになれなかったようです。というのは、気心が知れた友達がバラバラに散るのではなく、自分以外はみんな他の同じクラスに集中して、自分だけハズレということです。幼馴染の親友も、未だに同じクラスになれないまま5年目を迎え、このぶんだと卒業まで一度も一緒になれなさそうですね。

 周りを見ても、わりと仲良しグループが同じクラスになっているようです。

 ということは、もしかしたら娘は先生にわかるほどには、自分の地を出せていないのかもしれないな、なんてちょっと思いました。「先生は言ってもわかってくれない」と伝えることを諦めている節もありますしね。

 一方で、担任の先生は、娘が大好きな先生にアタリました。良かったじゃないか。めでたいことです。この先生は、私も娘が中2のときの授業公開で授業をたまたま聴いて、いい先生だなーとそのお話に感銘を受けたことがありました。真に先生らしい先生というのでしょうか。

 まとめると、この1か月の娘の様子は、一見毎日が楽しくてしょうがないように見えながら、何度か重い口を開いて、傷ついたり悲しかったりしたことを半べそで話すことがあり、日頃黙って我慢していることを垣間見せました。

 

 一つ言えることは、娘にとっては、仮に学校やクラスで楽しかったことが思い出せないくらい楽しくないことのボリュームが大きかったとしても、これからはまだわからないということ。

 来年のことはまだわからないし、今年だって、よく知らなかった友達の隠れた魅力に、ばったり遭遇するかもしれない。逆に、自分の隠れた魅力を友達が見つけてくれるかもしれない。どこにどんな出会いが隠れているかは、誰にもわからない。

 知らないということは、それだけ可能性を秘めているということだからね。自分の知っていることは、それがすべてではないどころか、ほんのほんの一部に過ぎない。

 だから、ふと我に返ったときには心柔らかく、自分にやさしくしてあげてほしいなと、そんなことを私は思ったりするのです。

高2塾がスタートしてみて

 新年度が始まり、学校の始業式があった日に、塾の始業式もありました。式といっても、教室でガイダンスを聞いてきたというところでしょうか。

 春休みは、その塾の無料講習に行って英語をやっていましたが、学校が始まる直前の2回分は欠席していました。出席を取るわけではなく本人次第の講習で、学校の宿題が残っていて気持ち的にそれどころではなかったようです。

 そうして、高2がスタートしました。

 

 高2塾では、1コマ増やして2コマ取ることにしました。娘は最初2コマとも英語を取るつもりでしたが、担任との面談のあと、1コマは英語、1コマは数1aを取ることに決めました。

 英語は、昨年秋から春までの半年で、高2までの文法を一通りやりました。春から初めて取ることにした授業では、選抜クラスに入れました。文法の続きをやるとしたら、高3の範囲になります。娘は、高2までの英語をやり通した達成感と、もっと進んでもっともっと英語を得意科目にしたい気持ちがあったと思います。

 しかしそれなら、今こそ数学をやってみてはどうかという担任の提案。娘の大学受験の第1志望は国公立ですが、数学が目立って足を引っ張っています。

 実は私も、娘の数学に関しては、自学で充分に復習ができるか、それとも塾に頼った方がいいかで、ずいぶん悶々としてきました。そんなことがあるので、英語が一区切りついて、空いた1コマを数学に当てるというのは、よもやチャンスと考えることもできます。

 英語のように、数学ではどんどん進むというわけにはいかないかもしれませんが、粘り強く向き合ってくれたらなと思います。

 

 そして、娘が先日初めて行ってきた数学の1コマ。どんな感触だったか聞いてみました。自分で思っている以上に、計算ミスやケアレスミスが多かったとのこと。「やばかった(語彙力)」と苦笑いしながらこぼしました。内容としては、一度やったことがある勉強で知ってはいる。忘れてはいないようです。わからなくてテンパる感じではなさそう。

 まあ勉強不足は否めないのですが、だからって贔屓目に見て、勉強すればぐんぐん伸びるのか。それはやってみないとわかりません。

 ともあれ、自分のペースで進めることで、数学やるのが思いがけず楽しくなってくれたらいいなと、こっそり願っています。

 ちなみに春から受けている英語の授業は、娘曰く、英語ができるようになるためではなく、テストで得点力を上げるための攻略的な授業だと。そんな発見を言葉にする娘が、まだまだかわいいと感じる母なのでした。

仕事を辞めたくなったとき

 人生はいくつになっても、いつからでもやり直せる。これまでも、これからも、自分自身に対しても、誰に対しても、基本的に私はそう思っています。

 そんなある日、ふと自分の人生を振り返りました。私は考えに考えた末に迷いが吹っ切れないとき、とりあえずやってみよう、やってみないとわからない、違ったらやり直せばいいと思って、一歩を踏み出してきました。

 その結果、やり直すことを繰り返してきたような気がします。一つに選べない、欲張りな自分でした。

 

 それは見方によっては、豊富な経験を積んできたということかもしれません。経験を楽しむというスタンスで、何人もの人生を経験するかのように。

 一方で、私の中に何十年も根強くあり続ける志向は、一つのことを根気良く続けたいということ。数より質を重んじたい。それは日々をただ繰り返しているようでありながら、周りが少しずつ変わっていくのを感じられる生き方。

 新しくやり直す連続では、そういった一つの物事における変化を見つけることができません。あのとき違ったと思ったことを、時間を経て振り返ると、そんなに違っていなかったことに気づいたりもします。

 要するに、考えたり感じたりというのは、あるようでないもので、そんなに確かなものではないのです。自分の好き嫌い、向き不向き、やりたいことなどは、何かを決めなければいけないときの後付けの理屈のようにも思えます。

 

 こういう私には、私ならではの進路選択の方法が、ずっと昔の若いときにあったのかもしれません。潰しが効く道というか。そして、こういう私だからなおさら、今辞めるのは違うのではないかと思います。

 自分が成長できる環境に身を置きたい。そういう欲は常にあるけれど、今ここで、自分にできることはまだあるのではないか。まだ最後までやり切っていないのではないか。高校生の子どもの親という立場で、軽率な選択もしたくない。

 そんな思いの中で、落とし所はどこなのか、今日もまた探しているのです。